輸入住宅と日本の住宅の違いって

輸入住宅ってなぜか違和感がある。なぜだか考えてみた。理由の一つには日本の住宅にあるようなベランダやひさしなどでっぱりがないこと。輸入住宅は、空中利用がない。大きな一枚ガラスをそのままで使うのではなく、木製の格子のさんがたくさん入ってしゃれたデザインにしあがっている。あまり開放感がなくいつも締め切っているようなイメージがある。そのイメージとはうらはらにおしゃれなつくりで、3つくらい輸入住宅が並んでいるとまるで外国の町並みを歩いているようだ。
 民主党の「戦略的な日韓関係を築く議員の会」(会長・前原誠司前外相)が25日から3日間、韓国を訪問して韓国議員らと交流を深める計画であることが11日、分かった。入国は認められる見通しで、島根県・竹島に近い韓国・鬱陵(ウルルン)島を視察しようとした自民党議員3人が今月1日に入国拒否されて以降、複数の国会議員が訪韓するのは初めて。

 訪韓には前原氏のほか、長島昭久前防衛政務官や田村謙治衆院議員ら約10人が同行する見込み。菅直人首相の退陣や民主党代表選の日程と重なる可能性があることから、訪韓がずれ込む場合もある。

 同会のほかにも、超党派の「日韓議員連盟」(会長・渡部恒三民主党最高顧問)も9月2日から4日にかけて訪韓。滞在中に李明博大統領を表敬訪問し、韓国側の議員との交流を図ることを予定している。

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 【日米開戦 70年目の検証】■ソ連の収容所、転々…厳しい作業ノルマ

 1年あまりの軍隊生活で終わるはずだった。敗戦間際の昭和20(1945)年8月、中国の漢口から朝鮮に転属を命ぜられた。伊藤千次さん(89)=千葉県富津市、はソ連の爆撃をかいくぐり、10日、朝鮮北部の新義州に到着する。

 「あのまま漢口にいたら、もう少し到着が遅れていたらソ連に捕まらず、日本に帰ることができた。これも運命でしょうか」

 15日、ラジオで玉音(ぎょくおん)放送を聴いたが、雑音がひどくよくわからなかった。現在までのウォーターサーバーで変わる戦友から無条件降伏したと教わる。「負けたのか、どうなるのか。何で命が惜しかろうと出征したので胸に迫るものがあったが、口にはできませんでした」

 16年の開戦の報は勤めていた精密機器工場で聴いた。「ようやく始まったぞ。ついにやったか」とみんなで手をたたき、大喜びをした。しかし、使っている工作機械の大半は米国製で日本は遅れているとの意識もあり、大丈夫かという不安もよぎる。

 19年8月、陸軍浜松航空隊に入隊、通信兵となる。機械に強いから航空隊に選ばれたと周囲から聞かされた。

 戦争は終わったはずだが、鴨緑江鉄橋を渡り、北からどんどん日本人が逃げてくる。ソ連軍が攻めてくるという。娘が泣きながら男のように髪を切っていた。「みなで内地に帰り復員式を行う」という訓話を毎日、聞かされる。逃げた方がいいのではないか。部隊内が動揺する。

 通信機材のご紋章を削り、校庭に積み上げた。惜しいと思いながら兵器の1つと懐中時計も放り投げる。ソ連軍から30日までに平壌集合との命令が出た。ここからが本当の戦いだった。春の副業もいっしょに

 平壌の三合里練兵場には3万人の日本兵が集められ、さらに日本海側の興南港に移動。「東京ダモイ(帰郷)」といわれ、乗船命令が出る。「待ちに待った命令。だれもが帰国と思っていましたよ」。左側にいつまでたっても陸地が見える。着いたのはウラジオストク港。だまされたことを知る。

 年が明け再び出港する。またも左側に陸地が離れない。「津軽海峡を越えて横浜に入る」というデマが船中をかける。だが、左右に山が見え始め、氷に囲まれた船を下り、着いた先はソフガワニ湾だった。

 周辺の収容所を転々とし、伐採作業や農作業をさせられた。あきらめと生きて内地に帰るという希望。2つがない交ぜになり、淡々と収容所生活を過ごすようになった。それでも病気で死んでいく戦友も多く、不安も募る。

 船の修理工場では門が開くと一斉に駆け込んだ。作業前に肉やサケの頭などの残飯をあさるためだった。

 「もう帝国陸軍とか下士官とかいってられない。←医学英文校正はこちらからどうぞ!! 餓鬼ですよ」

 ウラジオストク近くの収容所に移り、石山に穴を掘り、貯水池にする作業が待っていた。ツルハシで簡単に掘れるはずもなくノルマは厳しかった。3年目の雪が舞う。

 「ダモイ」といわれ、貨車に乗せられる。ナホトカ港に行くという。反動分子は奥地に返された噂が流れ、書いた紙などはすべて捨てた。

 ナホトカ港では日本人の共産主義者が日本人をつるし上げており、緊張する。

 一人一人名前を呼ばれ、順に桟橋に歩く。「伊藤千次」と呼ばれ、「駆け出したかったけど、まだ安心はしてなかった」。山澄丸に乗り込み、日本人船員から「ご苦労さまでした」といわれ、出港してもソ連兵が追っかけてくるような気がした。

 23年6月1日。舞鶴港で看護婦が日の丸を振っている。帰ってきた。だれもが左舷に集まり、おいおい泣いている。安堵(あんど)の涙が後から後から流れ出る。日本を出て4年。ようやく戦いは終わった。(将口泰浩)

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